最近考えたこと
まさりんです。
今年はオリンピックイヤーであると同時に、ゴシップイヤーでもあります。東京五輪に関しては東京五輪自体がゴシップが聞こえるようになってきましたが。その大半が、自分とは関係がないので、それほど触れないできました。ベッキーが不倫しようが関係ないですからね。たぶん、大勢がそういう感じだと思います。
ただ、先日「ワイドナショー」を見ていたら、「宮迫v.s.中田」状態の場外戦をしているという内容でした。ベッキーの件です。なんかいろいろな番組を跨いで行われている場外戦です。
※引用させていただきました。
オリラジの中田が文春に手紙を送ったベッキーに対して、「あざとい気がする」と発言しました。それに対して、宮迫が「よくそんなこと言える。今度切れとこ」的なことをコメントしたというのが元です。それに対して、松本人志が「ベッキーなんかでもめんな」とコメントしたそうです。
このやりとりを見ていて、我々一般人が思っていなければならないのは、ここで出てくる人間たちは誰もが本心を言っているとは限らないということです。番組にとって正解を出している、もしくは自分の芸能人のキャリアにとってプラスになるであろう発言をしているということです。
典型例が松本人志ですよね。たぶん「ワイドナショー」で取り上げられていることのほとんどの話題に本当は興味がないのではないかと感じてしまいます。ちょっと前、ラジオをやっているときのほうが、過激なことを過激な言い方で言っていました。もちろん、年齢を重ねて、娘さんも生まれて、変化したのかもしれませんが。上手です。素の松本人志を見せているようで、「正解」というのを常に意識しています。
オリラジの中田は、「ネット=世論」という、ネットのなかでしか通用しない理屈を意識しているのだと思います。それが「正解」だと考え、発言をしたのだと思います。もちろん、宮迫も。
これらのやりとりを見ていて感じたのは、つくづく世の中プロレスだなあ、ということです。私の言う「プロレス」を定義すると、「とどめは刺さない」、「行動に作法がある」というのが大きな条件です。
中田がベッキー否定のコメントをする。それに対して宮迫が逆のコメントをする。そうすると、中田の取れる行動は二つある。「宮迫、おまえは古いんじゃあ」と先輩と戦うコメントをする、もしくは「あにさん、目が覚めました」というものです。つまり、宮迫のコメントは、場を盛り上げる行動をいくつも作れる。
そこに松本人志が仲裁する。ここで宮迫が中田に行動の選択肢を作ったように、宮迫、中田に選択肢が生まれます。ただ、もう一度書くと、三人はそれほどベッキーの件に興味がないでしょう。ウーマンラッシュアワーの村本が番組で言っていましたが、「本気で何とかしようと思ったら、直接電話でもするでしょう」というのが本当です。
この話題はこれで終わりかもしれません。プロレスの場合、ここからさらに展開があり、抗争が勃発したりします。果ては団体の分裂。今はまったくわかりませんが、一時期は異様な数のプロレス団体が存在しました。この「プロレス」が一因かもしれません。そこまで詳しくないので間違っているかもしれません。
そうそう、プロレスを馬鹿にしているわけじゃありません。試合で三沢光晴も事故死してするくらい危険であるというのは認識しています。
中田はネット上の大勢を代表する形で意見を出しました。
ネット上も独特なプロレスが行われる場です。ただ違うのは、「本気でつぶしてしまう」ということです。あと、目立っているのが大勢とは限らないということです。そういう目立ち方をしている人間たちを「ノイジー・マイノリティー」と言うそうです。中田は「ノイジー・マイノリティー」に乗ってしまっているのかもしれません。
そうである場合、「ノイジー・マイノリティー」は持ち上げるだけ持ち上げて、落ちるときはハシゴを外してしまいます。そこもタチの悪いところです。中田は非常にまずいものの味方になってしまったのかもしれません。
※引用させてもらいました。
この辺りの話もそうですね。「プロレス」で発言しているんだと思いますよ。
ブログに関しても、考えました。
よく、ブログというツールの過去の経緯を知っている人が、はてなの最近の傾向について嘆くことがあります。ブックマーク、互助会、ブログの質の低下、などです。
SNSの登場以来、ブログというツールの使い方が劇的に変化したのだろう、というのをそういう昔を知っている人々の意見を聞いていて、感じます。
今のブログは、SNSの一つに組み込まれて使用されていることが多いのです。ツィッターを例に取ると、そこで行われているのは、「フォローしている人間やフォロワーの皆さんと小さな社会を形成して、仲良くやっていく」というスタイルです。実はブログもこういう使い方をされているのです。いわゆる互助会もそう考えると時代の趨勢である気がします。個人的には一部のコミュニティに向けたものよりも、天下公論を起こすような文章や、エッセイとして上手だなと思えるもののほうが好きです。しかし、それは万人がやるにはハードルが高いのです。
「質の低いブログ」とは一見してゆゆしき問題に見えて、観点を変えれば、SNS的なブログ運用方法としては理に適っているのです。
それにSNSはたぶん、人間の生理に適っているのかなと思います。個人で物事を判断するのが難しい時代、「口コミ」というのは広告としても最高です。CMで美人がビールをすすめても心は動かないかもしれませんが、友人に「このビール旨いよ」と言われれば心が動きます。つまり、経済という意味でも、おそらくSNS的な人間のつながりからBBSやブログ主体のネット活動には戻らない気がします。余談ですが、この方向で考えれば、SNSの次の形態を想像できるかもしれませんね。
だから、「嘆かわしい」と昔のBBSとブログ中心のネット文化に後戻りをしようという方向に話を進めると、はてな事態が衰退しかねないのかもしれません。
時代に合わせて「プロレス」するのが賢明なんですかね。ため息が出ますが。もう一つ、SNS化の方向には意味があります。それは「管理しやすくなる」ということです。SNSは無意識のうちに人の眼を気にしなければなりません。特に実名でSNSをやれば、やいのやいの上司が言わなくても管理が楽になります。レジスタンスたちはこの方向に抗っているのだとすれば、たいしたもんだなあ。
ラインをクラス単位でやっていて、受験に対する不安をライン上の皆で増幅し合って、皆で逃げようと雰囲気を作ったことがあるそうです。そのまま受験に失敗したという話も聞きます。なんでも副作用はあります。この方向で考えれば、次のツールも考えられるなあ。
masarin-m-dokusho.hatenablog.com