安心してください。上野はまだ咲き始めです。
特急まさりん号です。ネタ切れです。
先日、上野動物園に行きました。文章スケッチの前回の課題「鳥」の取材をするためです。上野動物園には一年ぶりに行きました。前回は、短編小説の「冬の動物園」を書くために行きました。結局、ぴんとこず、それにいつのまにか締め切りが終わっていました。
「短編小説の集い」の新ルールが発効されまして。もう次の課題「桜の季節」が開始になり、入れ替わりにもう文章スケッチの課題も「桜の季節」に変わっていました。まあ、そんなもんでしょう。そのとき、動物園でとった写真をあげておきましょう。そろそろスマホを買い換えたい。それとも、一眼レフか何か、良いデジカメを購入した方がいいのか。とりあえず、肉眼で見た光景と同じものを記録できる腕がほしいです。今のスマホでは、夜景はほぼとれません。
ではお楽しみください。
ぼちぼち咲き始めですね。一番メインの通り沿いの桜はまだでした。JR上野駅側から公園に入る入り口は三つあったと思いますが、JRからみて一番遠い湯島寄りの入り口の桜が一番咲いていて、「もしかして公園内は満開かな」と思ったのですが、まだでした。
入り口
アイドル。人が群がっていた。
以上です。最後の鳥が「ハシビロコウ」。前回の「短編小説の集い」のねぎさらささんの小説で登場した鳥です。
では。
現実の生きる力ってもっとエグいよね。昌幸みたいに。
深夜のまさりんです。深夜に書いて次の日に出します。
酔っていないのですが、夕方というより夜にジョギングをしたために、ちょっと身体がほてっているまさりんです。
1,真田丸は三谷作品
大河ドラマ「真田丸」が流行っている。「真田丸」とは大坂の陣で幸村が築いた大阪城の出城である。内容については賛否があるらしい。「あんなのありっこねえよ」みたいな話が不評を買っている。確かに、織田信長が唯一奴隷として所有していた黒人以外にも、外国人が城の警備をしていた。ワインを普通に町中で飲んでいた。などと、ありえるかありえないかすれすれの場面が存在する。
まあ「三谷幸喜だから」の一言でそれを片付けてあげるのが大人の作法だとしよう。ここでは。なぜなら、そこを深く追求するのが、今回の記事の目的ではないのだ。
2,役所が好む、きれいな生きる力。
文科省が「生きる力」というキーワードを出してからずいぶん経つ。
文科省が提示する「生きる力」とは
・確かな学力
<基礎的な知識、技能を習得し、それらを活用し、自ら考え、判断し、表現することにより、様々な問題に積極的に対応し、解決する力>
・豊かな心
<自ら律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性>
・健康・体力
<たくましく生きるための健康や体力>
であるらしい。ちょっと最近文学寄りの考えをしている自分としては、人間性とは欠落にあるように思う。これを全部満たしている人間とはあまりつきあいたくない。
「豊かな心」にあるように「自らを律し」ているのに、「他人を思いやり、感動する」人間はなかなかいない。いつも泣きながら叫んでいる照英はここに入らない。「他人を思いやり」ながら「他人とともに協調する」ことはかなり困難だ。自らを律している人間は他人に対して狭量になる。
世のリーダーはその縁スレスレを歩いているのである。完全に他人を思いやっていたら、組織はぼろぼろだ「自ら考え」、「判断」し、すばらしいアイデアをすべて「表現する」人間を馬鹿という。
ましてやそんな資質を育てるのは不可能だ。なぜかといえば、これらをすべて備えるのは生来の気質であり、教師に育てられるようなものではない。現実の教師の資質を越えているからだ。
全部満たすのは無理である。それを考えれば、それを表面的に満たしている人間とは、教師からは「ずるい人間」に見えるだろう。心底から信用されない人間になるか、周囲を謀りきるか、どちらかになる。人との距離を熟知し、時には道徳すら利用する、そんな人間だ。
イギリスでは政治家自らを縛ることになろうとも、健康と教育を国民に与えるということを誇りに思っているらしい。結局、こういう人間にはなれないと、国民を馬鹿にしているというのが文科省の態度であろう。
3,真田丸の昌幸が持っているのは生きる力だ。でも、周囲からすれば。
「生きる力」を「ずるさ」と仮定すると、「真田丸」の昌幸とはこの「ずるさ」を多分に持っている武将だ。若いころに武田信玄に見いだされた昌幸。その才覚を江戸幕府成立スレスレの時期まで発揮する。最後どうなるか。歴史ファンなら知っているだろうけど。
小国なのに大混乱期を乗り切り、徳川に一矢を報い続けた才覚である。個人的には、「大ばくちじゃあ」よりも、「だまれ、小童ぁ」よりも、昌幸の好きな台詞がある。
それは信長が死んだ後に、信之にどうすると問われた昌幸が放った一言、「まったくわからん」だ。我々は歴史でこの後どうなるのか分かっているが、この当時の昌幸には見えないことなのだ。
※ご家族の会話入り。
4,でも昌幸って……。
あらゆる手を使って生き残りを画策する昌幸のほうが、ロートル教師の説教を聞くよりもためになるだろう。
それにしても昔幸村をやったという草刈正雄の大げさな演技は時代劇に合うね。
「(第二次大戦で)生き残っているヤツは卑怯者で、我々は卑怯者の子孫」と言い放っちゃった、どこかの人がいたけれども、それとはべつの意味で、生きる力のある人って、ワイルドで、「ずるい」ヤツだ。
昌幸もそうで、大河でも出てくるが、調略で裏切らせた人間を簡単に捨て駒として使ったり、同盟を結んだ相手を利用したり、と「ずるい」行為のオンパレードだ。だが、生き残ったヤツが勝ちなのである。
ただ、この手の人間が天下を取れないというのも、またセオリーである。
久しぶりに大河を見たが、結構楽しんでいる。
最近の洋画ばりのはやい演出では、なかなか役者の演技の間がないのかもしれないが、それも良し。はじめに信長の野望みたいに、前話のあらすじが流れるのも良し。おもしろいからいいや、なんでも。眠い。
masarin-m-dokusho.hatenablog.com
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バグが出まくっているらしいので、PC版は出しません。
結婚って、ほぼすべての結婚で苦労するので、楽な結婚を探すのは無駄だと思う。
休日まさりんです。
休日なんですけど、家人不在にて、ブログを書いています。結婚生活について考えることしきり、というシリーズです。TSUTAYAで映画「ゲゲゲの女房」を借りて見てみました。その感想を書きます。
このお話の面白いところは、作者の自伝ではなく、作者の家族、配偶者の伝記だということです。作者の理解者でもあり、一番厳しい批評家でもある家族。本当はそういう関係が理想的だと聞いたことがあります。
私の妻も、私の駄文を読みます。読みたがります。読んで、誤字脱字のチェックをするのが妻の仕事です。私はこの類いのミスが多いので。その際に、私の文章を褒めたことがありません。別に良いのです。ケチョンケチョンに言われるよりは。彼女も昭和の女です。叱るのは得意なのですが、褒めるのは苦手らしいです。
さて、水木しげるの奥さんは一体どういう人か。見てみましょう。
1,あらすじ
島根県に育ち、二九にもなって結婚をしていない布枝は、鳥取県出身の武良茂とお見合いをして結婚をする。お見合いの時には、傷痍軍人として年金がもらえて、裕福な家庭であると言われていた。が、東京武蔵野市の武良家の家計は火の車だった。質にものを入れて、米代を稼ぐ、貸し本屋に出す漫画を書いていた。ただ、その原稿料は「暗くて売れない」という理由から値切られる。約束であった年金は、鳥取県の武良の実家が受け取っていた。
戦後皆が苦しい時期から、高度経済成長の時期に入った。茂が書きたい妖怪漫画はますます受け入れられなくなっていた。時代から減少していた、餓死者が周囲に出る始末。税務署員がやってきて、「この収入で家族三人が暮らせているとは思えない」といわれるまで困窮していた。
漫画を取り巻く環境は週刊誌での連載が主流になっていた。マガジンで「ゲゲゲの鬼太郎」が始まる前夜までを描く。
2,感想
布枝は最終的にだまされた形なので、島根の実家に戻っても良かった。坂井真紀演じる姉もそれを心配している。しかし、この時代の女性が嫁ぐというのは、後戻りできないという感覚が強かったのだろう。布枝は武良で踏ん張ることを誓う。その後、水木しげるは紫綬褒章、旭日小綬賞、文化功労者、数々の名誉市民などになり、出生地境港には水木しげるの街に作り替えられた。そんな人間になるとは思わなかっただろう。
ただ、名作「悪魔君」を書いた時期、それを読んで、「おもしろい」と感じていたことから、水木しげるの漫画をおもしろいとは思っていたのだろう。私はその一点が布枝を茂のもとにとどめた理由なのではないかと思う。作り手にとって家族は一番厳しい批評者になることが多いらしい。だから、本当に良作だったのだ。もちろん身びいきもある。
不遇な時代が長かった水木しげる。布枝が彼を支えられたのは、作品に対してきっと良き理解者だったからではないか。布枝自身が島根の出身で、妖怪の存在が身近であったこと。だから、妖怪話の面白さが理解できた。劇中、水木自身が自分の作風を捨てようとした瞬間があった。だが、時代のほうが変化した。高度経済成長のひずみが出始めたのである。時代が、明るいだけではない、影の部分を欲した。そして、鬼太郎にその役目が振られた。ぎりぎり間に合った、見ててそう感じた。
結婚に対して、昔は三高「背が高い、収入が高い、高学歴」が条件とされた。しかし、日本人の数%しか高収入の人間はいない。だから、「あとは落ちるだけ」とも言える。背が高い、は幸福な結婚生活にはなんの役にも立たない。これは「落ち」だろう。高学歴も、もう「英語を話せる」くらい珍しくない。こういう話を見ていると、また実際に結婚生活を送っていると、幸福になれる条件というのはまるでなく、しかも多種多様な家族がいるので、条件を提示することすら困難だと思う。
理想なのは、好きな人と結婚生活を「なんとかする」というのが実際の結婚生活なのかもしれない。旦那の稼ぎがなければ、嫁も稼げば良い。みながそうしていけば、男女の収入格差もなくなっていく・・・・・・、かもしれないし、そうでないかもしれない。でもそうするしかないのである。
それにしても、ちょっと暗い話になっているけれども、もしかすると、水木しげる側から書いたら、もっと牧歌的なものになったかもしれないなと思う。奥さんも、水木しげるも、どこか陽気でのんきな所があったから、ああいう生活に耐えられたのかもしれないなあ。
吹石一恵は水木しげるが描く女性に似ているから選ばれたのだろうか。猫娘っぽいでしょ。
3,基本情報
「ゲゲゲの女房」
原作:武良布枝
監督:鈴木卓爾
配役
田所初枝(姉):坂井真紀
飯塚只子(兄嫁):平岩紙
飯塚長兵衛(父):沼田爆
飯塚ミツ(母):天衣織女
佐久間弦太(編集者):榎本佑
火消し婆:石垣光代
川男1:吉岡睦雄
川男2:宇野祥平
小豆洗い:伊東麻実子
金内志郎(間借り人):村上淳
武良琴江(母):南果歩
4,関連記事です。
masarin-m-dokusho.hatenablog.com
ああ、やってしまった。ついでに「おっちょこちょい」の治し方。
一月ぶりの失意のまさりんです。
一月の失意はDAVID BOWIEの死でした。
三月の失意は・・・・・・やってしまった。ああ、やってしまった。ウォークマンをいっぱいの水に浸けて、洗濯機で洗ってしまった。やってもうた。
私は子どもの頃はおっちょこちょいで、忘れ物も多く、なくし物も多かった。それを母親にひっぱたかれながら、直していった。こういうのを直すコツは、「自分は物をなくし、忘れ物をしやすいタイプだ」ということを認識して行動することだ。そうすると、「最低限、外出するときに押さえなければならない組み合わせ」などを自覚するようになる。そうやって、だんだんと物を粗末に扱わないようになるのだ。
だから、財布や家の鍵などを無くしたことはない。一度もない。携帯電話の置き忘れもない。傘はたまにある。でも、二十代からカウントすると、十年に一本くらいだ。
でもこの「ウォークマン洗濯事件」は生涯二度目だ。しかもいつも同じパターンだ。
これはおっちょこちょいを克服してきたと思っていた私には相当ショックだ。
昨日夕方ジョギングをした。
春先はずっと眠かったり、だるかったりする。これはたぶん東洋医学の考え方だと思うけど、「春先は冬にたまった老廃物を肝臓が解毒し続けるのでだるくなる」のだそうだ。この春先が私はとても苦手。ぐったりしてしまう。
だが、ジョギングをしてからは別だ。春先のふいに暖かくなった日などは、走って汗をかいてしまう。汗は尿の数百倍の解毒作用がある。だから、汗をかいてすっきりさせるのだ。そういう日は発汗を促すために少し厚着をする。
ジョギングのお供にいつもウォークマンで音楽を聴く。ウォークマンは決まってビニールのジャンパーの左側のポケットに入れる。そうそう、おっちょこちょいをなおすための方法。それは「ルーティンを多く作り、法則を外れないようにする」というのも有効だ。左側のポケットにウォークマン、右側にティッシュを入れる、と決めたらいつもそうすると良い。
走り終わって、うちのかみさんと待ち合わせて、スーパーで買い物をした。その時がいけなかったのだ。私の方が先にスーパーについたので、スマホでゲームをやりながら待っていた。そのとき、イヤホンをウォークマンから外し、スマホに装着。バッグにウォークマンを入れたのだ。ルーティンから外れる行動をしたのだ。
帰宅後、汗まみれのウェアを洗濯。干すときにバッグもネットに入れて洗うので、ネットの中を外から探ると、覚えのある直方体の物体が。
「ウギャ」と叫んでしまった。
二度目でもあるから知識がある。ウォークマンでもiPodでもスマホでも、こういう場合、焦って電源を入れてはいけない。乾燥させるのが賢明だ。
だが、一度目の場合、ラジオはつくのだが、音楽のファイルは飛び、再度ファイルを転送することはかなわなかった。なんだろう、HDDがいかれたのだろうか。
今回も復活は難しいだろうと、購入した家電量販店とソニーのページをチェックした。これは自然故障にはならないだろうから、有料修理。交換か修理もかなり高額になるだろう、と踏んだ。
翌日である今日の昼、家電量販店に問い合わせてみた。なんとなくだけど、「修理に出します? 本当に?」というニュアンスがあったような気がした。その量販店の延長保証では自然故障じゃなければ、修理代の負担はできないようだった。それでは意味がないのだけれども。つまりメーカー保証が長くなるということだ。
電話をしているとその「本当に修理します?」というようなニュアンスに引っかかった。「見積もりが無料になるので家電量販店経由で出した方が安くなる」という説明も引っかかった。だって、修理代四〇〇円で見積もり一〇〇円だったら、それほど気にしない。一応は「100円です」という説明はするだろうけど、ちょっと量販店経由で修理した方がいいですよ、という感じが引っかかった。つまりは修理自体がものすごく高額で、見積もりを入れたらさらに損だ、という説明に聞こえたのだ。ただ、この話量販店にもうけはなさそうだけれども。キックバックがあるのかな。
ここのところ、営業などにやられっぱなしだった私は、即断は避け、一度電話を切った。
結局はネットに転がっていた情報をちょっと鵜呑みにして、自然乾燥にかけてみる。それでもだめだったら、発売当時より価格が下がったから、買い直すか、別の手を考えるか。
iPhoneやXperiaなど、スマホに音楽再生機能がもともと備わっているものと、ウォークマンとどっちが音がいいのだろうか。愚問だね。やっぱりウォークマンなんだろう。
はあ、とにかくやってもうた。そんな春の始まりだ。
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※記事記載のウォークマンは、画像のウォークマンとは限りません。
母親の葛藤
まさりんです。
しつけに関する記事が多く出ている。きっかけは昨日の北海道の話だろう。家族四人で公園に遊びに来ていて、子どもが同じ河原の公園にいた人々に向かって小石を投げていた。子どもは七歳である。その子どもの行動に激高して、親は子どもを山に置き去りにして帰ってしまった。あとで迎えに行ったらいなくなってしまった。両親は驚き警察に駆け込んだのだが、そのときの理由が「山菜採りに来ていて、はぐれてしまった」と話していた。なぜ本当のことを言わなかったかと言えば、「恒常的に体罰をしていたと勘ぐられるのがイヤだった」ということだ。
この経緯だけを見ていても、何かを言いたくなってしまった方は多くいると思う。
どうして嘘をついたのか。
本当に息子は生きているのか。
本当に体罰はなかったのか。
様々な憶測がわき出てしまう。
一番最悪な想像をあえてする。普段から言うことを聞かない父親が、その日衝動的にきつく暴力を振るってしまって殺してしまった。そして、どこかに死体を隠匿してから、警察に行ったというパターンだ。
特に子どもの性格というのは親の気質を継ぐ部分がある。大きくなれば、経験で変化していくのかもしれないが、七歳くらいだと、まだまだ親の影響下だ。子どもが見知らぬ人に小石を投げるという刹那的な性格であるならば、逆算的に親が短絡的で衝動的だと考えても不思議ではない。親と子はよく似ている。自分の子が自分の欠点を継いでいないと考えるのは親だけだ。うーん、厳しい。
短絡的、衝動的な性格の父親が忘我の状態になり、暴力を振るってしまった。無い話では無いだろう。
もっとも、結論が出るまでは何とも言えないし、私の下最悪の憶測はおそらく外れていると思う。それを願ってもいる。
目撃者がいる(小石を投げられた人間)からだ。目撃証言がまるで出てこない。いなくなったのが二八日で、三日も間があったのだ。誰かが情報提供していてもおかしくはない。
子どもとはものすごいパワーを持っているものだ。ひょっこり出てきてもおかしくはない。
とにかく、本当は最終的な結論が出ないことには話が進まないのである。
ただ、この記事の筆者はそこから過去のこと、現在の子育てのことにいろいろと思いをはせたようだ。
それにしても、ツイッターの投稿者はひどい。
少々、誇張があったとしても、だ。
私が同様の場面に遭遇した場合、その子どもには触れないだろう。もしかすると、「どうなるかな」と見ているかもしれないが。
それは個人的な経験による。
友人に子どもが生まれて、その子を見に行ったときのことだ。
友人である父親は後から仕事から帰るということで、私は先にお宅にお邪魔した。私が友人の息子と娘と遊んであげた。その間に母親はせっせと家事をこなしていた。特に娘がやんちゃな時期で、「あれやって、これやって」と多くの遊びを私にやらせた。それ自体はそれほど苦痛では無かった。
一番きつかったのは、母親の監視の視線というか、オーラというか、あれである。そのときに、女性は子どもを産むと母親になるという、以前から聞いていたことが本当なのだと知った。あれほど怖い視線は浴びたことが無かった。家政婦程度には信頼はされていたのだろう。私に子どもを任せて、風呂に入ったりしていたから。
今回の例に戻すと、信頼していない人間が自分の子どもに触れようとしたら、母親はそれがどんなに良い行為でも、その行為を許さないだろう(今回の行為が良いとは思わっているわけではない)。だから、「おじちゃんと良いところへ行こう」などと言わず、それどころか何も言わず、傍観しているのが正解だろう。ときには父親ですら排除するのが母親なのである。
「それで育児に失敗したら子どもがかわいそうだろう」
いや、残酷だが、そういう家庭に育つというのも子どもの個性だ。このやり方が失敗するかどうかは別として。溺愛したから成功するとも限らない。
ツイッターの送信者は結構いい年だ。四七か。それくらいのことは知っていてもよい。
はじめ、ジョークで言っているのかな、と思ったのだが、どうも違うようだ。
それともクリエイターとか言っておいて、感性とか観察眼がないのだろうか。案外そんなところなのかもしれない。
ただ、これも教育や親のしつけに対する個人的な思い入れがこの送信者の背景にあって言わせたことかもしれないので、あまり批判するつもりもない。
幼少期に母親に裏切られた感覚を持った、とか。
逆に思い切り良い母親であった、とか。
思ったのだが、逆に母親に「大丈夫だよ」と言ってあげたらどうなるのか。
心臓止まりそうになるくらい睨まれるか、心が冷え切るようなとびきりの笑顔で「すいませ~ん」と言われるのだろうなあ。
怒られるのを承知で書くが、子どもが幼少期のときは父親も含めて男はサポートしかできないのではないか、と思う。子どもがもう少し大きくなれば、父親が活躍できる場面、もしくは父親でなくてはできない場面が登場するのであるが。
追記
※ 本当にいろいろ想像してしまう話だ。
追記:なにもなくてよかったね。
最近考えたこと
まさりんです。
今年はオリンピックイヤーであると同時に、ゴシップイヤーでもあります。東京五輪に関しては東京五輪自体がゴシップが聞こえるようになってきましたが。その大半が、自分とは関係がないので、それほど触れないできました。ベッキーが不倫しようが関係ないですからね。たぶん、大勢がそういう感じだと思います。
ただ、先日「ワイドナショー」を見ていたら、「宮迫v.s.中田」状態の場外戦をしているという内容でした。ベッキーの件です。なんかいろいろな番組を跨いで行われている場外戦です。
※引用させていただきました。
オリラジの中田が文春に手紙を送ったベッキーに対して、「あざとい気がする」と発言しました。それに対して、宮迫が「よくそんなこと言える。今度切れとこ」的なことをコメントしたというのが元です。それに対して、松本人志が「ベッキーなんかでもめんな」とコメントしたそうです。
このやりとりを見ていて、我々一般人が思っていなければならないのは、ここで出てくる人間たちは誰もが本心を言っているとは限らないということです。番組にとって正解を出している、もしくは自分の芸能人のキャリアにとってプラスになるであろう発言をしているということです。
典型例が松本人志ですよね。たぶん「ワイドナショー」で取り上げられていることのほとんどの話題に本当は興味がないのではないかと感じてしまいます。ちょっと前、ラジオをやっているときのほうが、過激なことを過激な言い方で言っていました。もちろん、年齢を重ねて、娘さんも生まれて、変化したのかもしれませんが。上手です。素の松本人志を見せているようで、「正解」というのを常に意識しています。
オリラジの中田は、「ネット=世論」という、ネットのなかでしか通用しない理屈を意識しているのだと思います。それが「正解」だと考え、発言をしたのだと思います。もちろん、宮迫も。
これらのやりとりを見ていて感じたのは、つくづく世の中プロレスだなあ、ということです。私の言う「プロレス」を定義すると、「とどめは刺さない」、「行動に作法がある」というのが大きな条件です。
中田がベッキー否定のコメントをする。それに対して宮迫が逆のコメントをする。そうすると、中田の取れる行動は二つある。「宮迫、おまえは古いんじゃあ」と先輩と戦うコメントをする、もしくは「あにさん、目が覚めました」というものです。つまり、宮迫のコメントは、場を盛り上げる行動をいくつも作れる。
そこに松本人志が仲裁する。ここで宮迫が中田に行動の選択肢を作ったように、宮迫、中田に選択肢が生まれます。ただ、もう一度書くと、三人はそれほどベッキーの件に興味がないでしょう。ウーマンラッシュアワーの村本が番組で言っていましたが、「本気で何とかしようと思ったら、直接電話でもするでしょう」というのが本当です。
この話題はこれで終わりかもしれません。プロレスの場合、ここからさらに展開があり、抗争が勃発したりします。果ては団体の分裂。今はまったくわかりませんが、一時期は異様な数のプロレス団体が存在しました。この「プロレス」が一因かもしれません。そこまで詳しくないので間違っているかもしれません。
そうそう、プロレスを馬鹿にしているわけじゃありません。試合で三沢光晴も事故死してするくらい危険であるというのは認識しています。
中田はネット上の大勢を代表する形で意見を出しました。
ネット上も独特なプロレスが行われる場です。ただ違うのは、「本気でつぶしてしまう」ということです。あと、目立っているのが大勢とは限らないということです。そういう目立ち方をしている人間たちを「ノイジー・マイノリティー」と言うそうです。中田は「ノイジー・マイノリティー」に乗ってしまっているのかもしれません。
そうである場合、「ノイジー・マイノリティー」は持ち上げるだけ持ち上げて、落ちるときはハシゴを外してしまいます。そこもタチの悪いところです。中田は非常にまずいものの味方になってしまったのかもしれません。
※引用させてもらいました。
この辺りの話もそうですね。「プロレス」で発言しているんだと思いますよ。
ブログに関しても、考えました。
よく、ブログというツールの過去の経緯を知っている人が、はてなの最近の傾向について嘆くことがあります。ブックマーク、互助会、ブログの質の低下、などです。
SNSの登場以来、ブログというツールの使い方が劇的に変化したのだろう、というのをそういう昔を知っている人々の意見を聞いていて、感じます。
今のブログは、SNSの一つに組み込まれて使用されていることが多いのです。ツィッターを例に取ると、そこで行われているのは、「フォローしている人間やフォロワーの皆さんと小さな社会を形成して、仲良くやっていく」というスタイルです。実はブログもこういう使い方をされているのです。いわゆる互助会もそう考えると時代の趨勢である気がします。個人的には一部のコミュニティに向けたものよりも、天下公論を起こすような文章や、エッセイとして上手だなと思えるもののほうが好きです。しかし、それは万人がやるにはハードルが高いのです。
「質の低いブログ」とは一見してゆゆしき問題に見えて、観点を変えれば、SNS的なブログ運用方法としては理に適っているのです。
それにSNSはたぶん、人間の生理に適っているのかなと思います。個人で物事を判断するのが難しい時代、「口コミ」というのは広告としても最高です。CMで美人がビールをすすめても心は動かないかもしれませんが、友人に「このビール旨いよ」と言われれば心が動きます。つまり、経済という意味でも、おそらくSNS的な人間のつながりからBBSやブログ主体のネット活動には戻らない気がします。余談ですが、この方向で考えれば、SNSの次の形態を想像できるかもしれませんね。
だから、「嘆かわしい」と昔のBBSとブログ中心のネット文化に後戻りをしようという方向に話を進めると、はてな事態が衰退しかねないのかもしれません。
時代に合わせて「プロレス」するのが賢明なんですかね。ため息が出ますが。もう一つ、SNS化の方向には意味があります。それは「管理しやすくなる」ということです。SNSは無意識のうちに人の眼を気にしなければなりません。特に実名でSNSをやれば、やいのやいの上司が言わなくても管理が楽になります。レジスタンスたちはこの方向に抗っているのだとすれば、たいしたもんだなあ。
ラインをクラス単位でやっていて、受験に対する不安をライン上の皆で増幅し合って、皆で逃げようと雰囲気を作ったことがあるそうです。そのまま受験に失敗したという話も聞きます。なんでも副作用はあります。この方向で考えれば、次のツールも考えられるなあ。
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炭水化物を抜く
こんにちは、まさりんです。
うららかな春の午後、いかがお過ごしですか。薄着でいられるのっていいですよね。冬中悩まされた鼻づまりが、花粉が大量に飛び始めるころからすっかり治るという、皮肉れた体調です。
ちょっと体重を落とすために炭水化物抜きダイエットを敢行しております。といっても、私の場合はかなりゆるめ。主食である、パン・麺類・ご飯をとにかく抜く、というダイエット方法です。おかずなどに炭水化物が入っていても、大量に入らなければ気にしないというものです。そして、はじめの二週間くらいはがっちり主食を抜き、それからは「日曜日は食っても良いよルール」を入れています。早くも停滞期に入っている気がします。成功したら、もう少しお書きしましょう。今のところ、2~3キロくらい落ちています。でもこれ、結局続けなければ意味がないので、それが不安です。
体調面での変化は、暑さ寒さの感じ方が違うかな。ずっと空腹でもあります。食べた一時間後に早くも腹減ったり。
あと、少々いらいらします。昨日も「むかむかする」と書いたのですが、それが助長されているような気がします。情緒不安定です。まあ、鬱状態に突入しないようにコントロールしていきますわ。
そして炭水化物のないメニューというのを頼めるところは場所が限られるので、基本的に自炊なのが大変です。食費もかさみます。コンビニでも、スーパーでも、炭水化物抜き弁当とか作ってくれると、売れると思うし楽なんですけどね。
※ここからは想像混じりです。
こう書いといてなんですけど、炭水化物のありがたみを感じています。「人類を滅ぼす」とか書いている医者がいますけどとんでもない。救世主です。ローコストで高カロリー、炭水化物だけ入れとくと、どれだけ副菜の量を減らせるか。
数日前に添島さんのギリシャ紀行文がブログに掲載されました。が、ギリシャがその覇権を他に譲った原因の一つにこの羊の放牧の問題があると聞きました。ギリシャの山々の草は羊に食い尽くされたそうです。つまり環境破壊が深刻になったそうです。
それを助けたのが、南米から来たトウモロコシだったそうです。これを飼料に使うことで、大量の草を必要としなくなったのです。それくらい、炭水化物って偉大なんです。抜いといてなんですけど。
数年前和食が無形文化遺産に登録されました。しかし、あんな豪勢な料理を食べ続けるようになったのは戦後のことです。戦争の10年で、親から子に伝統的な食事内容の継承がされなかったのが大きかったと聞きます。物資が不足してしまったので仕方がありません。
戦後の繁栄の結果、おかずが豪勢になったから今のような状況になっているのです。ただ、あるものは否定できません。それは人間の心理に反することです。だから、結局おかずを食えよ、ご飯食うなよという結論に至るのは「炭水化物が世界を滅ぼす」とか煽情的に書いている人たちと一緒なんですけどね。
何でこう書いているか、自分に言い聞かせているのです。がんばれって。ああ、腹減った。
炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)
- 作者: 夏井睦
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/10/17
- メディア: 新書
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